言語(音声)コミュニケーション [思想・信条]
人間は、相手のしゃべっていることの20パーセント程度しか理解していないという学説があるらしいと、昔、何かで読むか聞くかした。
仮説に過ぎないのだろうが、なるほどと思う説である。
悪意があって、相手の話を聞き流しているわけではないのだろうが、意外と、話の通じない相手というのは多い。
私の場合は相手の話はできるだけ100パーセント完全に理解しようとしてしまうので、頭も疲れるし、あいまいな点にどんどん突っ込みを入れて、相手が明確に質問に答えてくれない場合、だんだんエキサイトしてきて、私が相手を尋問、取調べをしているような感じになってしまったりもする。
これでは、相手との関係が悪くなってしまうに決まっている。
ある程度、相手の話をあいまいなままにしておくのも、人付きあいの上では重要なことのようだ。
逆に、私が相手に話をするときは、やはり私の話を相手に100パーセント完全に理解してもらおうとしてしまうので、話がやたらくどく、しつこくなってしまう。
これだけでも円滑なコミュニケーションの支障になるのだが、さらに、私の話を完全に理解しない(できない)相手に対して、ネガティヴな感情を持ってしまったりするので、始末に悪い。
やはり、自分の話していることなんて、20パーセント程度でも相手に通じたとしたら、それで御の字だと思っていた方が、人付き合いはうまくいくのだろうな、と考えている。
本当は今でも、相手の話すことは完全に理解したいし、自分のしゃべることは相手に完全に理解させたいのだが、社会に適応していくためには諦めと妥協が肝心だと思う。
世の中、あいまいなで、「適当」で「好い加減」なのが当たり前なのだ。
ビジネスなどで、あいまいのままだと不都合が生じる場合には、契約書を交わして、約束をはっきりさせればいいのだし、日常生活でのやりとりでは、話があいまいでも、別に差し障りはないのだろうから、リラックスしたおおらかな人間関係を構築するためには、あいまいさがかえって重要だろうと思う。
四角四面に合理的で論理的で過度に正確を要求されるのは、人から嫌われるし、かえってさまざまな障害になることが多いことだろう。
この歳になって、だんだんそう考えるようになってきた。
私としては、残念なことなのであるが。
全てのあいまいさを排除した、ロジックで全てが割り切れる世界が、私の理想なのである。
いつか遠い将来、そんなデジタルでロジカルな社会が実現するかもしれないが、少なくとも今の世の中はそうじゃない。
現実社会に適応するためには、理念を曲げなくてはならない(あたりまえのことだ)。
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