フランスの自然主義文学 [境界性人格障害]
フランス文学についてちょっと勉強しようと思ってこの本を読んだ。
モダンな文学は扱っておらず、19世紀後半から20世紀前半にかけて主流だった自然主義文学についての研究書だ。
芸術の前進という立場から見れば、ちょっと反動的な研究だろう。
しかし、仏文に限らず、一時は時代遅れとされたクラシックな作品が再評価される傾向は英文学などについてもいえることだ。
ないしろあれだ、モダンな文学は一般読者にとって、読みにくい、意味わからん、わけわからん。
その点、ポストモダン以前、現代文学以前の近代文学というのは、芸術家じゃない普通の読者が読んでもけっこう面白い。
もちろん昔だって、つまらない作品もたくさん書かれたことだろうが、そういった作品群は時代の波に淘汰されて、現代にまで残ってるしぶといクラシック作品はどれもそれぞれがそれぞれに魅力を力強く放つ逸品ばかりだ。
商業主義の文学へのアンチ・テーゼとしての芸術至上主義の意義は認められるが、読者を無視した執筆活動とうのは、最終的に自己満足に行き着いて袋小路に入り込んでしまう危険性がなきにしもあらずなのかな、と思った。
その点、バルザック~シムノンのこれらの作家は、商業主義と芸術主義とのバランスをうまくとっていて、その相矛盾するものを抱え込んで破綻を免れている緊張感がその作品を偉大ならしめているのではと結論しているようである。
私はフランス文学については初学者どころか、入門すらしていない門外漢だ。
小説は好きでいろいろ読んできたが、この研究所でも取り上げられている、『谷間の百合』、『従妹ベット』、『赤と黒』、『パルムの僧院』、『ボヴァリー夫人』、『ナナ』、『居酒屋』、『ベラミ』、『ピエールとジャン』、『失われた時を求めて』、『夜の果ての旅』、メグレ警視シリーズ、のような著名な作品群をいずれも未読であることを再発見して恥じ入った。
なぜか昔からフランス文学は食わず嫌いしていたのだ。
この研究所では、前半の第一部で自然主義についての総論が展開されていて、後半の第二部では8人の偉大な自然主義作家についての各論が通史的に展開される。
研究対象の小説を読んでいないので、第一部を読み進めるのは正直つらかった。
なかなか頭に入ってこなくて、第一部を読み終わるのに2週間もかかった。
第二部は仏文(の自然主義文学)の入門書として読めて、こちらは面白く読めた(2晩で読んだ)。
訳者あとがきもあわせて450ページの本、5,200円もするだけあって、けっこう読みごたえがありました。
これを読んで、私の教養にも、0.06パーセントくらい利子がついた感じです。
これからは暇を見て、上に上げた偉大な自然主義のクラシックも読んでいきたいと思いました。
ひとつ気になったこと。
この研究書でとりあげられる作家8人は全員男性であること(もっともプルーストは同性愛者らしいが)。
仏文は男の世界のようだ。
まあ仏文に限らずドストエフスキーとかトルストイとかで有名なロシア文学だって男ばっかりだし、アメリカ文学だってスタインベックとかヘミングウェイとか「男らしい」のが主流だったし、日本文学だって、漱石・鴎外~三島由紀夫まで主流はあくまで男性だった。
その点、英文学は特殊で面白い。
オースティン~ブロンテ姉妹~メアリ・シェリー~ジョージ・エリオット~ウルフ~ドラブル、果てはハリー・ポッター・シリーズの作者とか『ブリジット・ジョーンズの日記』の作者とかまで女流作家が近代以降はいつの時代も大活躍している。
女性学が盛り上がっている現在、英文学が特に注目されている所以だろう。
イギリス文壇だって、もちろん質・量共にに男性作家の方が勝っているだが、決して無視できないだけの質・量を女流作家によって担われているのだ。
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